toranekodoranekoのブログ

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小諸にわらじをぬぐ者は ふたたび小諸に来たる

【2015年7月東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に掲載したものです。
本年5月13日改めて賛美の機会が与えられることを機に、再掲いたしました。】
【投稿日付が7月25日になっていますが、実際は4月25日です。
ブログの運営者に調べていただきましたが原因不明。ご迷惑おかけしますがそのままとさせていただいています。】  


2015年に小諸聖書教会に賛美のご奉仕に参りました。
その4年前にも奉仕に伺ったときに頂いた、ミニチュアのわらじです。
再び小諸に来ることを望み、コンパクトカメラのケースにしまって持ち歩いていました。そして願いはかなえられました。


 朝の礼拝で「聖なるかな万軍の主」を奉げました。
イザヤ書第6章からとられた曲です。


  清水修子先生のお説教「霊的に新しく生まれる。」
ヨハネの福音書第3章です。霊的に新しく生まれ変わること、永遠の命、神は、実に、そのひとり語を愛されたほどに世を愛された、というあの核心へとつながっていきます。
お説教の中で特に印象深かったのは「神は人に世を支配することを命じられたが、この『支配』とは、命令することではなく、お世話をすることだ。」とおっしゃったことです。
「あなたは猫を支配して思い通りに動かすことができますか?」
もちろんできません。人間は、猫一匹をも、自分の思い通り動かすことはできません。
神は人に絶対専制君主になることを命じられたのではないのです。
猫ちゃんが居心地良く過ごせるようにお世話することです。
ちょうど、神様が私たちにしてくださっているように。


 そして教会の皆様が作り持ち寄っていただいた山のようなご馳走で、交わりのひとときを持ちました。写真は、そのごく一部です。
自然豊かな小諸の地の恵みを、参加された人の方々の真心を、心ゆくまで味わいました。



午後からはチャペルコンサートです。


Ⅰ.「感謝の賛歌」(詩編100編)
東京カベナント教会の辻本文子姉が教会宣教50周年で奉げられた曲です。
力強い響きが会堂いっぱいにあふれました。


Ⅱ.水野源蔵の詩による歌
「まばたきの詩人」水野源蔵先生は、全身マヒにかかりました。まばたきで文字板を指して美しい詩をいくつも紡ぎだされました。武義和先生が曲をつけました。
イエス様復活の朝を歌う「こんな美しい朝に」 動物も人もふさわしく「生きる」
そして、「ただキリストの贖いゆえです」


ヨハネ福音書11章にもとづく清水先生の短いメッセージ
「わたしはよみがえりです。命です。」


Ⅲ.「受難(パッション)」
(末尾掲載のブログご参照。2016年6月に山形の地で規模を拡大して奉げました。)
   今日のメインです。聖イグナチオ教会のホイヴェルス神父が詞を作られ、山本直忠先生(髭の指揮者山本直純先生のお父様)が作曲されました。
1994年に上野の奏楽堂で演奏されて以来です。20年ぶりの再演となります。
すべてを演奏すると2時間かかります。その中から数曲を抜粋しての演奏です。
エンゲルコールの奏楽者湯浅照子先生(オルガ二ストとして各地で活躍されている)は直忠先生の御嬢様、直純先生の妹様です。お父様が渾身の力を振り絞って作曲された「受難」の再演を願って様々準備をされ、ようやく小諸の地にて再演されることとなったものです。


  まず、湯浅照子先生が曲を紹介されました。お父様が「ピアノの上に五線譜と聖書を置き、祈りながら作曲された」と言うお話は、演奏する者にとって身の引き締まる思いでした。DVDの山本直忠先生の言葉を思い出しました。「私は祈りながらこの曲を作った。不思議な力に支えられひと月でスケッチを完成することができた。そして今もなお祈り続けている。」


   オルガンが響きピアノが縁取る前奏から曲は始まります。
イエス様をののしる群衆の姿、「われ決して汝を否まじ」と必死に言うペテロに「鶏が再び鳴く前に、汝は三度我を否まん」と厳しく言うイエス様、ゲッセマネの園で血の涙を流して祈るイエス様、そしてついに捕えられ、こぶしと唾のあざけりに打たれる姿・・・
十字架にこそすべての救いがあります。「われを愛さば後に来たれ」とのたまうイエス様のあとを慕って私たちは進みます。


最後はシェリーの「光り輝く朝が来る」
暗い罪の夜は明け、救いの恵みのもと、光り輝く朝が来ます。救われた者は、地の果て世の果てまでも、たたえ歌を歌い続けます。


こうして小諸のコンサートの幕を閉じました。


【注】「受難(パッション)」については、その後山形の教会でさらに規模を拡大して捧げる機会がありました。以下のブログをご参照ください。
「受難(パッション)」を捧げた恵み~真夏の祈り~


虎猫

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