toranekodoranekoのブログ

虎猫・銅鑼猫など様々なブロガーが参加しているサイトです。クリスチャン、社会保険労務士、多言語活動家、女性キャリア官僚、科学ライター、うるさいばあさんまで、多士済々。お楽しみください。

クリスチャンブロガーが綴るブログです。
明るい高齢化社会、病から得た様々な宝、世の中の動きへの警鐘(銅鑼)を鳴らすこともあります。
ときどき大阪弁も出てくる聖書物語もお楽しみに。
主催者のほか様々な協力者も登場します。

戦争の下、国家は個人を領有する


朝日新聞3月29日朝刊の記事です、
ぜひご一読ください。国家と個人のあり方について、深く考えさせてくれます。


印象に残ったところを若干紹介します。


「私の身体は私だけのものではなく、国家という得体(えたい)の知れない巨大なものによって領有されている。必要があれば、国家はいつでも私の身体を徴用し、法律の下、「愛国」「国を守る」という大義名分の下で、好きなように使うことができ、場合によっては死なせることもできる。その事実はとても恐ろしいものだった。」


戦争が起こるということは、個人の身体に対する国家の領有権が極限まで拡張するということだ。身体だけではない。頭の中で考えていること(思想)、発せられる言葉や書かれた文字(言論)、その全てが国家に領有され、管理され、利用され、場合によっては弾圧の対象にされる。その中で「個人」なるものは存在せず、あるのは「国民」「勇敢な兵士」「一億火の玉」という総体、そしてその全てを凌駕(りょうが)する「国家」という巨大な権力だけだ。それに異議を唱えようものなら、直ちに「売国奴」や「非国民」に仕立て上げられて排除の対象となる。」


「私はウクライナを侵略したロシアを非難する。その行為はウクライナの人々の自由を大きく害しているからだ。もし中国が台湾や日本に侵攻したら、私は中国を非難する。その行為は私の自由、そして私の人生に登場した多くの素敵な人たちの自由を大きく害するからだ。しかし、それを防ぐために自分自身の自由を国家権力に献上せよと声がかかったら、私はそれを拒否する。」



そして、結びの言葉です。
「私は瓦礫の下敷きになったり、砲弾で撃たれたりして死にたくない。大空と大地に抱かれて安らかに死んでいきたい。それは本来、人間というものに等しく与えられた権利のはずだ。」


藤田直央三のコメントも紹介します(朝日新聞編集委員=政治、外交、憲法)
 「李さんは国家への信仰の危うさを、民間人に多くの犠牲を生んだウクライナ危機から説きます。ただ、国家への信仰はふだんから空気のようにあります。例えば日本では昨年にかけ、新型コロナウイルスの感染拡大から人々の生命を守るために様々なイベントが中止される中で、時の首相らはなぜ「コロナに打ち勝った証し」として東京五輪開催にこだわったのか。そこには、日本という国家が、国際的かつ国家的に特別なイベントを成し遂げねばという信仰が垣間見えます。」


【銅鑼猫コメント】
いわゆる保守派といわれる人々の考え方は、国民は国家に尽くすべきだ、国民は国家のために存在する、という考え方でしょう。
国のために尽くすことがあたかも人間としての当然の義務だ、と信じているのです。
逆です。国家は国民のために存在するのです。
国民の生命と健康を守り、幸福の追求を守るために、国家は様々な制度を整えて運営しているのです。


銅鑼猫

×

非ログインユーザーとして返信する