toranekodoranekoのブログ

クリスチャンブロガーが綴るブログです。
明るい高齢化社会、病から得た様々な宝、世の中の動きへの警鐘(銅鑼)を鳴らすこともあります。
ときどき大阪弁も出てくる聖書物語もお楽しみに。
主催者のほか様々な協力者も登場します。

夏の輝き

燃え立つ夏の太陽をいっぱいに受けて
街路樹から黄金のしずくがこぼれています。


木陰でひととき涼んでください。
僕たちは日の光に輝いています。


丸の内のビルの一角。ここにも命が輝いています。


【注】2012年7月に東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に投稿していたものです。丸の内に勤務していたとき、昼休みに撮影した写真です。



誇りをかけた戦い

あの日。
東京から高井戸まで4時間半歩いて帰宅しました。結構歩けるものだと思いました。
八重洲口から皇居を回り、新宿通りから甲州街道へと歩きました。
たくさんの人が秩序正しく、ピクニックにでも行くように、楽しげに歩いていました。
甲州街道の途中、ある会社のビルの前でおじさんたちが楽しげに呼び込みをしていました。
「トイレどうぞお使いください。お疲れの方、遠慮なく、中でお休みください。」


日曜日の夜から月曜日にかけて。
原発の事故。計画停電。
乾電池が売り切れている、もう手に入らない。
家の中を探したら、20本ありました。
店をあさるより、自宅を片付けるほうがよさそうです。


近くのスーパーは大変な行列。買いだめする人でいっぱいでした。
水は販売制限、納豆、バナナ売り切れ、弁当、おにぎり、パンも肉も同様。


そして、19日土曜日
スーパーは落ち着きを取り戻していました。
もやし、パン、牛乳はお一人一個、コメはご家族で一袋。という販売制限。
それでも、棚には、弁当も肉も潤沢です。バナナも山盛りでした。


レジの列は短く、並ぶ人のかごの中も、半分くらいしか入っていません。
「買いだめはやめましょう。」政府、マスコミ、識者の呼びかけがありました。
人々は素直に従っています。買いだめしないことが自分のため、この国のためになることを心から理解しています。


私は4時間半歩いて家に帰ることができました。
いまだに家に帰れない人がいます。
ついに帰れなかった人もいます。


心が落ち込むとき、希望をなくしそうになるとき、
そのときには、あの日々を、私たちがどのようにふるまったかを思い出しましょう。
この国の各地で、今を生きている人々のことを思いましょう。
そして、今日一日を落ち着いて明るく過ごしましょう。
それが私たちの誇りをかけた戦いの第1歩と思います。


「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。

(マタイによる福音書第6章34節:新共同訳)


【注】2011年9月東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に投稿したものです。
8月は終戦の月。でも私たちの戦いはまだまだ続きます。今一度、あの時のことを思い出してみましょう。


虎猫





みつばさのかげに―第二次大戦に生きたあるドイツの作家

朝ごとに主は 目を覚まさせ
私の耳に 語りかける
主のみ言葉で 迎える朝
私と共に 主はおられる。
(讃美歌21 第472番第1節)


この讃美歌の右肩に「詞Jochen Klepper(1903-1942)」と書かれています。 
39歳の若さで亡くなったヨッヘン・クレッパーは、ドイツでは著名な作家です。
ナチスの治世下でも、その作品は非常に高い評価を受けていました。
彼は、ユダヤ人の未亡人を妻に迎え、その2人の娘さんを養女とします。
ナチスが政権をとり、ユダヤ人狩りが妻と娘さんに及んできます。かろうじて長女だけは国外脱出させることができましたが、妻と次女を逃すことはできませんでした。
クレッパーはドイツ国防軍にも支持者が多かったので、要人を訪ねて、助命を乞います。つてを頼って、かのアイヒマンにも面会しますが、助命はかないません。
明日にはゲシュタポに捕えられるという時に、一家は死を共にします。
クレッパーの大部の日記があります。日本でも抄訳が発行されています。


「1942年12月10日
(中略)私たちは今晩、一緒に死に赴く。
最後の数時間私たちのために闘っておられる祝福のキリスト像が、私たちを超えて私たちの頭上に立っておられる。(後略)」
(小塩節、小槌千代訳「みつばさのかげに―愛と死の日記」1977年日本キリスト教団出版局)


8月には広島、長崎への原爆投下があり、そして終戦記念日です。
わが国だけではありません。多くの悲劇が多くの国に起こったことを、私たちは忘れてはなりません。クレッパーの思いをかみしめたいと思います。


闇は深まり 夜明けは近し
あけの明星 輝くを見よ
夜ごとに嘆き 悲しむ者に
よろこびを告ぐる 朝は近し
(讃美歌21 第243番「闇は深まり」第1節 詞クレッパー)


虎猫


【注】「8月は、6日、9日、15日」という俳句があるそうです。
原爆と第二次世界大戦についての以下のブログもあわせご参照ください。


広島とグラウンド・ゼロ
それでも、日本人は「戦争」を選んだ。



「受難(パッション)」を捧げた恵み~真夏の祈り~

イエス様の十字架の受難を題材にした曲です。
聖イグナチオ教会のホイヴェルス神父の作詞、山本直忠先生(髭の指揮者山本直純先生のお父様)の作曲です。1950年に初演されましたが、1965年に山本直忠先生が亡くなった後は、演奏されることもなく、ようやく1994年に上野奏楽堂で直純先生の指揮で演奏されました。「エンゲルコール」(カベナントコワイヤ指導者の四家先生の賛美グループ)を軸に、いくつかの合唱団、オーケストラも加わった大規模なものでした(当時のビデオをコピーしたDVDが残っています)。その後は演奏の機会がありませんでした。
「エンゲルコール」のオルガ二スト湯浅照子先生は直忠先生の御嬢様、直純先生の妹様です。お父様が渾身の力を振り絞って作曲された「受難」を埋もれさせたくないと、再演を願って祈り様々な準備をされました。
一昨年ようやく小諸キリスト教会で一部を抜粋して演奏することができました。(これについては別途ブログを投稿します)
その後、山形の大江町キリスト教会からお話があり、昨年6月5日にまとまった形で奉仕する機会に恵まれました。
原曲ではイエス様の独唱が重要な部分を占めますが、技術的にはとても難しいものです。虎猫がナレーションで演じました。大役です。


いよいよ本番の礼拝が迫ります。
どうしても心が落ち着かず、祈り続けました。
突然、御声が聞こえました。
「お前ひとりの力で出来ると思っているのか。」
目が覚めました。
自分ひとりの力で出来るのではない、自分ひとりのために演奏するのでもない。
平静な気持ちで、心を込めて奉げることができました。


今、あの大江町で加わっていただいたソプラノやチェロの響きなどを思い出し、心が打ち震えるような感じがいたします。
そして、私たち小さな群れが、また、この小さな者が心を込めて捧げたあの受難(パッション)が、その場に集った皆様の心に響き、忘れがたいひとときとなったことを、今は確信しています。


いま、この演奏に至るまでの経緯を少し振り返ります。
原曲のイエス様のセリフは文語です。湯浅先生から、若い人にもわかるように口語訳にしてほしい、と依頼を受けました。軽く引き受けたものの、どうすればよいか迷っているうちに、どんどん日が経っていきます。
祈るうちにインスピレーションがわきました。まずイエス様になりきって自分の言葉で書いてみよう、それから細かく調整すればよい。
祈りつつ、ほとんど1日半ほどで草稿を作りました。それから手元の聖書10種類以上を参照しながら推敲しました。区民センターに幾日か通い詰め、完全防音のピアノ室・オルガン室を借りて思い切り声をだし、練り上げました。さらに日が迫ると、カベナント教会の礼拝堂が無人の時を見計らって、会堂での響きを確認しました。最後には大阪から見えたT姉がピアノ伴奏を務めていただき、細かく練り上げたのです。
【文語・口語の一例】
(原曲の文語)
「我まことに汝に告ぐ。汝、こよい鶏の再び啼く前に、必ずみたび我を否まん」
(口語訳)
「ペテロよ、はっきりと言っておく。お前は、あす朝の鶏が啼く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。」


でも私のこんな苦労は何の自慢にもなりません。
山本直忠先生は、暑い夏、冷房もない時代、朝4時に起きて、ピアノの上に五線譜と聖書を置き、祈りながら作曲されたのです。
DVDの山本直忠先生の言葉を思い出しました。「私は祈りながらこの曲を作った。不思議な力に支えられひと月でスケッチを完成することができた。そして今もなお祈り続けている。」


『我らなくして神は成さず、神なくして我らは成せず。』(聖アウグスティヌス)


【注】2016年8月に東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に投稿したものです。暑い夏、山本直忠先生の盛夏の朝の祈りを思い出し、改めて投稿いたしました。小諸聖書教会での賛美は2015年6月、山形大江町キリスト教会での賛美は2016年6月です。
上記では「一昨年」「昨年」と表記しています。


虎猫


「スラヴ舞曲集」の誕生

ブラームスが貧しい音楽家のための奨学金の審査委員を務めていたときに、目に留まったのがボヘミアの田舎から応募してきた青年ドヴォルザークの曲でした。
ブラームスはこの青年が世に出るのに力を貸そうと決意します。「自分が世に出ることができたのはシューマン先生ご夫妻のご尽力によるものだ。自分はこの青年が世に出るのに力を貸そう、それが先生ご夫妻のご恩に報いることにもなる。」
ブラームスはそう考えたに違いありません。楽譜出版のジムロック社を紹介して、出版にこぎつけます。
ジムロック社もこの青年の才能を高く買い「ブラームス先生のハンガリア舞曲みたいな舞曲集を作ってみませんか。」と青年に持ちかけます。
こうしてできたのがスラヴ舞曲集の第1集。初めはピアノ連弾で、次にジムロックの勧めでオーケストラ版が出版されます。出版されるや大評判、ドヴォルザークの名はヨーロッパのみでなく、新大陸まで響いたとされます。


クララ・シューマン様


ドヴォルザーク君のスラヴ舞曲集がジムロック社から出版されました。楽譜をお送りします。
本当に名曲です。
私のハンガリア舞曲集は、お気づきの通り、ハンガリアのメロディーを借りた手慰みにすぎません。ドヴォルザーク君のスラヴ舞曲集は、大地の香り、民族の誇りに湧きたっています。私は本当に恥ずかしく思いました。
たとえブラームスの作品が忘れ去られても、ブラームスの名は「ドヴォルザークを世に出した男」として知られることになるでしょう。それこそ、音楽に一生をささげた男の喜びと思います。
                                
                             ヨハネス・ブラームス


ヨハネス・ブラームス様


ドヴォルザーク様の楽譜ありがとうございます。
ピアノ連弾のスラヴ舞曲集、あなたのおっしゃる通り、素晴らしい作品です。
草原の風、虫の音、踊る人の心臓の鼓動まで聞こえてきます。
お隣の奥様が見えたので、連弾で引いてみました。
子供たちが大喜びで、踊りだしたのです!
この息吹、この土の香りは、確かにドヴォルザーク様のすばらしい資質です。
でも、民族の音楽のすばらしさを世に知らせたのはブラームス様あなたです。


あなたが初めて我が家にいらしたとき、あなたのピアノを聴いた主人が「ちょっと待ってください。妻にも聞かせたい。」と言って私を呼びに来たのです。
二人であなたの演奏を聴かせていただきました。
私たちは語り合いました。
神様がこの若者を私たちのところに連れてこられた。たとえシューマンの作品が忘れられることがあっても、シューマンの名はヨハネス・ブラームスを世に出した人として後世に知られるようになるだろう、と。
ブラームス様はこのヨーロッパ全土に大作曲家として名を成すでしょう。
ドヴォルザーク様は、ひょっとすると、それを超えてさらに広い世界に知られる方かもしれません。
どうか、この若者を見守り、助け、励ましていただきますように。
                              クララ・シューマン


(ブラームスとクララ・シューマンのお手紙は、虎猫の創作です。ブラームスやドヴォルザークの曲を聴き、伝記を読んで、お手紙の形にしてみたものです。)


参考文献
黒沼 ユリ子「ドヴォルジャーク―わが祖国チェコの大地よ」 (作曲家の物語シリーズ(4))
ひの まどか「ブラームス―人はみな草のごとく 」(作曲家の物語シリーズ(7))
(リブリオ出版)


【注】東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に2011年7月に投稿したものです。先に投稿した「ブラームスー夏のサンタおじさん」と対をなすものです。


虎猫