toranekodoranekoのブログ

クリスチャンブロガーが綴るブログです。
明るい高齢化社会、病から得た様々な宝、世の中の動きへの警鐘(銅鑼)を鳴らすこともあります。
ときどき大阪弁も出てくる聖書物語もお楽しみに。
主催者のほか様々な協力者も登場します。

ガザの洗礼(使徒の働き第8章より)

私はエチオピアの女王陛下カンダケ様に使える宦官です。
女王陛下の身の回りに仕える官僚は去勢された宦官に限られます。
畏れ多くも女王陛下との関係を疑われてはなりません。また子をつくるものは自らの一族の繁栄を考えて、女王陛下への忠誠を軽んじかねないからです。
私のように家柄も後ろ盾もない者にとって、宦官となることは栄達のためのごく限られた道だったのです。
覚悟を決めてこの道に入り、幸いにも女王陛下のご信頼をいただき、陛下の財産一切の管理をお任せいただけるまでなりました。
でも、町を視察するときなど、若い夫婦が子供を連れて楽しげに歩く姿、家族が集まって宴を催している姿などに、自分が失ったものの大きさを考えることもありました。


エルサレムに幾度か出向く機会がありました。彼の地の宗教に接し、礼拝にも出席しました。
でも、私のような宦官には、改宗の道が閉ざされていることも知りました。
それでも学ぶ気持ち止みがたく、ようやく聖典のひとつ「イザヤ書」を入手できました。長い巻物ですが、素晴らしい教義が書かれていると聞いたのです。


エルサレムからの帰り、ちょうどガザのあたりのさびしい道を馬車で走らせているとき、イザヤ書を手に読み始めました。意味も分からないままに圧倒され、気がついたときは夢中になって声に出して朗読していたのです。
「ほふり場に連れて行かれる羊のように、・・毛を刈る者の前に立つ羊のように、彼は口を開かなかった。・・」
そのとき、馬車の戸をノックする音が聞こえました。
「今読んでいらっしゃることの意味がお分かりになりますか。」
私は答えました。
「教えてください。私には導く方が必要なのです。どうか馬車にお乗りください。」
馬車に乗ってきたのはまだ若い人でした。穏やかな笑みをたたえながら話し始めました。
「ギリシャ系ユダヤ人のピリポと申します。サマリヤの地で多くの方にイエス様のことを伝え、洗礼を授けてまいりました。神の御使いの声を聞き、ここに参りました。」
「イエス様?ひょっとすると、ナザレ出身の人で、異端者として極刑に処せられた人ですか?エルサレムでいろいろな話を聞きました。」
「そうです。そのナザレ人イエス様です。あなたが今お読みになっていたイザヤ書は、イエス様を予言した箇所なのですよ。」
「・・ほふり場に連れて行かれる羊とは・・・」
「イエス様は自らが十字架刑に処せられることを知っておられました。一言の弁明もなさらずに十字架を担ってゴルゴダの坂を上られました。」
「なぜ、逃げようとなさらなかったのですか。」
「今お読みになったところの前を読んでみてください。」
私は言われるままに読みました。
「『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かっていった。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』
これは・・・イエス様はすべての人の罪を一身に背負われた、とおっしゃるのですか?」
「その通りです。その章の最後を読んでみてください。」
「『彼は多くの人の罪を負い、そむいた人のためにとりなしをする。』・・」
私はただ茫然と目の前にいる人を見続けました。
その人がこう語りました。
「この方こそ、本当の救い主です。」
それは私自身の心の中の声とさえ思えました。
「ピリポ様、でも私は宦官です。あなた方の宗教を信じても改宗することはできないのでしょう?」
「どうしてですか?どなたでもイエス様とその救いを信ずる方には洗礼をさせていただきます。」
そのとき、馬車の窓から水辺が見えました。
「お願いです、ピリポ様!どうか、私にあそこで洗礼を授けてください。私でも洗礼をいただけるのでしょう。」
私は御者に命じて馬車を止めました。
そしてピリポ様は私に洗礼を授けてくださったのです。
水につかり、引き上げられた時、私の心の中に静かな明かりがともりました。
主よ、私はイエス様の救いを信じます。あなたは私たちすべての者のためにその命をも差し出されました。私も貴い御跡をついてまいります。
そのように祈り、ふと顔を見上げるとピリポ様の姿は見えなくなっていました。
きっと別の場所で私と同じように迷う人々のために尽くされるのだろう。
そう思いました。
平安な気持ちのまま、馬車に乗り、エチオピアへの帰途につきました。


【注】このブログは東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に2012年10月に投稿したものです。本年のイースターのあと心新たに新しい日々を迎えるとき、一つのよりどころとなると考えて投稿いたしました。


虎猫