ゼロ戦、小田急、新幹線
このブログは2013年7月に東京カベナント教会ブログ「重荷をおろして」に投稿したものです。9月24日(日)小田急線に乗ってその乗り心地のよさから、このブログを思い出し投稿いたしました。
「ゼロ戦、小田急、新幹線」と並べるとなかなか語呂がよいと思いませんか。日本の技術の進歩に尽くした先人たちの功績が記された名前なのです。
戦後、日本の陸海軍の航空技術者たちが、当時の国鉄の「鉄道技術総合研究所」に職をえます。あのゼロ戦などを設計製作してきた人々です。
そのころ、小田急は高速鉄道の開発に注力していました。小田急線は非常に曲がりくねっていて高速運行ができず、並行する国鉄にお客を奪われていたからです。しかし開発はなかなかうまくいきません。
思い余った小田急の幹部は、ライバルの国鉄の鉄道技術研究所(鉄技研)に頭を下げて協力を求めます。鉄技研は快く協力に応じます。陸海軍出身の優秀な技術者を抱えながら、適切な研究課題がなく、技術の伝承・進歩ができなくなるという危機感があったと言われています。当時の国鉄は大量輸送には注力していましたが、高速運行にはあまり重きを置いていなかったのです。
小田急の高速鉄道の構想を聞いた技術者たちは奮い立ちます。高速軽量で運動性能に優れた航空機を開発した技術を存分に生かし、小田急の高速電車を開発します。ご存知の「ロマンスカー」はこうして誕生しました。
とはいえ、小田急線は直線区間が少なく、せっかくの電車の性能を存分に発揮することは難しかったのです。そこで小田急・国鉄の協力で、直線区間の多い国鉄函南・沼津間の路線を用いて高速試験運行を行い、当時の狭軌鉄道の世界最高速となる時速145キロメートルを達成します。
この高速試験の結果は、その後の新幹線開発に生かされていくのです。
戦争のためにゼロ戦はじめ多くの軍用機が開発・製造され、多くの若者の命が失われました。ゼロ戦については技術面でも防御性能を重視しなかったなど、問題もあったといわれています。それでも名機に違いありません。
その技術が戦後の高速鉄道の開発に存分に発揮されたのです。
虎猫