toranekodoranekoのブログ

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証「日本経済新聞への投稿に寄せて」

 1月30日の日経新聞朝刊への投稿「ヤミ残業は不正の温床になる。」について、昨日2月26日(日)に東京カベナント教会の礼拝の場で、皆様に証(あかし)としてご報告いたしました。以下がその内容です。


 おはようございます。
壮年会の玉上です。
1月30日の日本経済新聞に私の投稿「ヤミ残業は不正の温床になる。」が掲載されました。
お手元に記事の内容を差し上げています。
(*内容は本ブログにも掲載しています
「日経新聞への掲載『ヤミ残業は不正の温床になる。』を参照ください)


 これについて主の不思議な導きがあったことを証させていただきます。
電通の若い女性社員が過労自殺を遂げた痛ましい事件がありました。私の日経新聞への投稿はこの事件を機に、「ヤミ残業いわゆるサービス残業の問題」と「ハラスメントの問題」について、経営者へのメッセージという形で投稿したものです。
 投稿の内容を簡単に申し上げ、その後でこれに至る主の導きについてお話いたします。
ヤミ残業・サービス残業は我国で横行しているようです。会社への忠誠心の表れといった、とんでもない誤解もあるようです。しかし、ヤミ残業は時間外勤務の実態という経営の基礎数字をごまかすものです。営業成績をごまかすのと同じです。このようなごまかしが横行すればいずれは不正・不祥事の温床にすらなりかねません。また、ハラスメントの問題は、法律上のこまごました議論を別として、要するに社員を罵り(ののしり)あざけり、あるいは陰口を叩く、即ち社員相互の信頼と尊重をむしばむ行動なのです。
やがては社会を、お客様をあざけり金もうけの道具としか考えなくなる。そんな風土をさえ産みかねません。


 皆様いかがでしょうか。この投稿の中で、私はごく当たり前のことを申し上げたに過ぎないと思っています。
 この投稿に至った主の導きについて申し上げます。
 私は一昨年、2015年10月に三井住友信託銀行という銀行を65歳定年退職いたしました。在職中に幾度か重い病で入院し、退職直前の10月にも緊急入院して辛うじて命を永らえました。このような状態では退職後にまた、新しい職場について勤めることはできないと考え、以前から持っていた社会保険労務士、公認不正検査士(これは、企業の不祥事件や不正の対応の専門資格です)などに関する勉強を進めながら、自分のこれからの道を考えて行こうと思いました。在職中にはコンプライアンス、企業倫理、不祥事・不正防止対策等に取り組んだものの、様々なやり残しを感じており、この問題を自分なりに極めることができないかと考えてまいりました。
 ちょうど1年前の2月に日本公認不正検査士協会に自分なりの教材の企画を持ち込み、賛同いただきました。数多くのセミナー・研修などに出席し、講師の先生がたに積極的に問いかけたり、お礼のメールを差し上げたりしているうちに、人脈も広がって様々な知見も身について参りました。
 昨年の暮れにようやく教材「不祥事・不正は他人事ではない。」を完成させました。パワーポイントで100枚以上、100分程の講義の録画も加えたもので、近々、発行いただける予定です。そのような中であの電通の事件を知り、自分なりにこれまでの知見を生かして世に問うことができないか考え、日経新聞に投稿したものです。
 日経新聞をお読みの方はお分りと思いますが、私が投稿した「私見卓見」という欄は立派な肩書きの方の投稿が掲載されており、とてもハードルが高いものです。別に載らなくても良い、自分の考えをまとめる一つの機会だ、くらいの気持ちで割り切って1月の初めに投稿しました。ほどなく「掲載が決まりました」という連絡をいただいたのです。
皆さんどうお考えでしょうか。
 もし、私が健康に恵まれておれば、65歳を過ぎてもどこか勤めようと思えば勤めることはできたはずです。社会保険労務士の資格を生かして事務所を開いてバリバリ仕事することもできたかもしれません。
自分の病のためにそういった道は閉ざされました。
 今思うに、先程の教材の完成、これを用いた今回の日経新聞への投稿、これらは、病を得たが故の大きな成果でした。
ひょっとすると主は、敢えて私の道を狭め、私なりに世に役立つための狭き門と険しい道を整えてくださったのではないか。今はそのように考えております。


 私たちは、一人一人自分にいただいた賜物を用いて未来を切り開いていく責任が課されています。賜物は別々です。果たすべき責任も様々です。語ること、書くことの賜物をいただいた私は、語ること、書くことができない方々に代わって、語り続け書き続けるという責任を負っているのだと思います。人としてどう生きるか、主に示された道に従い、当たり前のことを当たり前として世に示していく責任です。
人と同じようにできないことを悩んだり不平を言う必要はありません。自分なりのことを感謝して躊躇わずに行うだけです。
ルカの福音書第9章23節にこう書かれています。
「だれでも私について来たいと思うなら自分を捨てて日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」
今は自分にいただいた十字架が何であったかを知ることができた。そのように感謝するばかりです。


銅鑼猫

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